壁をすり抜けることはできるのか?――量子トンネル効果を人間に起こせない理由

微視的粒子で起きる量子トンネル効果を、人間サイズへ拡張できない理由を確率、デコヒーレンス、物質構造から考える。

公開 2026/9/14 確認 2026/9/14 読了 10分 中級 執筆: 知識図書館 編集部

原子や電子の世界では、古典物理なら越えられない壁を「通り抜ける」ことがある。

これが量子トンネル効果である。

もし電子が壁を抜けられるなら、

人間も極端に低い確率で壁をすり抜けられるのではないか。

この問いは一見、SFのようでいて、量子力学から完全に無関係ではない。

結論から言えば、

人間を構成する粒子すべてが都合よく同時にトンネルして、人体の形を保ったまま壁の反対側へ出る確率は、現実上ゼロとみなしてよい。

量子力学が禁止しているというより、

確率が天文学的どころではなく小さすぎる

のである。


量子トンネル効果はどのような現象か

量子トンネル効果とは何か

古典力学では、エネルギー E を持つ粒子が高さ V の壁へ向かい、

E なら壁を越えられない。

坂を登るだけのエネルギーがなければ、途中で戻ってくるのと同じだ。

ところが量子力学では、粒子は単なる点ではなく波動関数で記述される。

その波動関数は障壁の中へ少し染み込み、障壁が有限の厚さなら反対側にもわずかに存在する。

そのため、

障壁の向こう側で粒子が検出される確率がゼロではない。

これがトンネル効果である。


粒子が「壁の中を高速で突っ切る」わけではない

トンネル効果は、

「粒子が一瞬だけ莫大なエネルギーを借りて壁を突破する」

と説明されることがある。

これは一般向けの比喩として広まったが、厳密には正確ではない。

量子力学では、障壁を含めた波動関数全体を解くと、反対側に有限の確率振幅が現れる。

つまり、

古典的な軌道で壁の中を走っているわけではない。


トンネル確率は何で決まる?

単純化した1次元障壁では、透過確率 T は概ね

T ∼ e⁻²κᵃ
のように指数関数的に小さくなる。

ここで

κ = √(2m(V − E)) / ℏ
であり、
  • m:粒子の質量
  • V-E:障壁の高さ
  • a:障壁の厚さ
  • ℏ:換算プランク定数

である。

重要なのは、

質量・障壁高さ・障壁厚さが大きくなるほど、確率が指数関数的に減る

ということだ。


電子なら起こる

電子は非常に軽い。

さらに原子・分子スケールの障壁はナノメートル以下である。

そのため、トンネル確率が無視できない場合がある。

実際、

  • トンネルダイオード
  • フラッシュメモリ
  • 走査型トンネル顕微鏡
  • 核融合
  • 放射性崩壊

などにトンネル効果が関係している。

つまり量子トンネルは、珍しい理論現象ではない。

現代技術の中ですでに使われている。


原子核でも起こる

アルファ崩壊では、原子核内部のアルファ粒子が古典的には越えられないポテンシャル障壁をトンネルして外へ出る。

太陽内部の核融合でも、陽子同士が電気的反発を古典的に完全突破できない条件でも、量子トンネルによって反応が進む。

もしトンネル効果がなければ、恒星の核融合条件そのものが大きく変わる。


人間の壁抜き確率が消える理由

では人間も量子力学に従っているのでは?

その通りである。

人間も原子からできている。

原子も電子も原子核も量子力学に従う。

したがって、

「人間だけ量子法則から除外される」

わけではない。

問題はスケールである。


人間は重すぎる

トンネル確率の指数には質量 m が入る。

質量が大きいほど、指数の絶対値が急激に大きくなり、透過確率は極端に小さくなる。

電子の質量は約

9.11 × 10⁻³¹ kg
である。

一方、70 kgの人間を一つの量子物体として扱えば、その質量差は約

10³²
倍のオーダーになる。

この時点で、トンネル確率はほぼ消滅する。


壁が厚すぎる

量子トンネルが観測されやすい障壁の厚さは、原子・分子スケールであることが多い。

壁の厚さが数cm、数十cmになれば、透過確率は指数関数的に低下する。

指数関数は恐ろしい。

厚さを10倍にすると確率が10分の1になる、という程度ではない。

e⁻ˣ
の指数 `x` が10倍になるため、確率が何桁、何十桁、何百桁と落ちる。

人間全体が同時に抜けなければならない

さらに致命的なのがこれである。

人間は1個の粒子ではない。

およそ 10²⁸ 個程度の原子からできている。

仮に各粒子が壁をトンネルする確率を p とすると、

全粒子が都合よく同時に反対側へ現れる確率は単純化すれば

pᴺ
のようにさらに小さくなる。

ここで N ∼ 10²⁸。

たとえ1粒子あたりの確率が「かなり低い」程度でも、全身になると事実上ゼロになる。


しかも人体の形を保つ必要がある

単に原子が壁の向こうへ出ればよいわけではない。

人体として成立するには、

  • 原子の位置関係
  • 分子結合
  • 細胞膜
  • タンパク質構造
  • DNA
  • 神経配線
  • 血液循環
  • 脳活動

を保ったまま移動する必要がある。

1個でもバラバラに抜けてよいわけではない。

つまり必要なのは、

約 10²⁸ 個の原子が、人体構造を維持した相関状態のまま、壁を越えること

である。

現実的には考える意味がないほど低確率になる。


巨視的な物体に量子性を保てるか

デコヒーレンスの壁

量子らしい重ね合わせは、環境との相互作用によって急速に失われる。

これをデコヒーレンスという。

電子や原子なら、真空・低温・遮蔽環境などを使って量子状態を保てることがある。

しかし人間は、

  • 空気分子
  • 熱放射
  • 光
  • 周囲の物質
  • 体内の分子運動

と猛烈に相互作用している。

体温約37℃というだけでも、内部では膨大な熱運動が起きている。

人間全体を「一つのきれいな量子波」として保持することはできない。


巨視的量子現象は存在する

ここで、

「大きい物体では量子現象は絶対に起こらない」

と考えるのも誤りである。

超伝導や超流動では、多数の粒子が巨視的に量子状態を共有する。

SQUIDでは、巨視的な電流状態の量子的性質を扱える。

また、比較的大きな分子を使った干渉実験も行われている。

つまり、

量子力学は大きな世界で消えるわけではない。

ただし、環境から隔離して特定の自由度を量子的に保つ必要がある。

人体全体とは条件が全く違う。


「原子の隙間」では壁を抜けられない

「壁の中の原子の隙間を通ればいい」は違う

物質は原子からできており、原子の内部はほとんど空間だと言われる。

ならば、

「人間の原子と壁の原子がうまくすれ違えば、通り抜けられるのでは?」

と思うかもしれない。

しかし「原子の内部が空いている」という表現は、ビー玉がスカスカに並んでいるという意味ではない。

電子雲同士の電磁相互作用と、フェルミ粒子の量子統計によって、物質同士は簡単に重なれない。

手で壁を押したとき感じる固さは、主に電磁気的・量子的な相互作用による。

空間が多いから素通りできるわけではない。


パウリの排他原理も壁になる

電子はフェルミ粒子であり、同じ量子状態へ無制限に詰め込むことはできない。

物質が物質の中へ簡単にめり込めない理由には、

  • 電子雲の反発
  • パウリの排他原理

も深く関わっている。

人体と壁の原子が「すれ違う」というより、互いの電子状態が強く相互作用する。

これが日常世界の「固体らしさ」を作っている。


では壁を薄くすれば?

障壁厚さを原子レベルまで薄くすれば、電子などのトンネルは起こりやすくなる。

実際、半導体デバイスでは絶縁膜を極薄にするとトンネル電流が流れる。

しかし人間サイズの物体をそのまま通す話にはならない。

「電子1個が数nmの障壁を抜ける」

と

「70 kgの人間が20 cmのコンクリート壁を抜ける」

の間には、単なる倍率では説明できない巨大な差がある。


「確率ゼロではない」をどう解釈するか

理論上ゼロではないなら、いつか起きる?

よくある疑問である。

「確率が完全にゼロではないなら、宇宙の寿命ほど待てば起きるのでは?」

数学的には、特定の理想モデルでゼロではない確率を持つことはある。

しかし人間全体のような巨視的系では、必要な確率があまりにも小さくなる。

その待ち時間は、

宇宙年齢を何乗しても足りない

ほど大きくなりうる。

現実の物理では、

「原理的に厳密なゼロではない」

と

「実際に起こり得る」

は分けて考えなければならない。


「量子ジャンプ」とは別物

量子力学には「量子ジャンプ」という言葉もある。

これは原子や量子系が離散的なエネルギー状態を変化することを指す。

空間を瞬間移動するという意味ではない。

量子という言葉がつく現象をすべて瞬間移動と結びつけるのは誤解である。


壁抜きに近い別方式はあるか

壁抜けに近い現実技術はあるか

人間が物質をそのまま通り抜ける技術はない。

ただし「壁の向こうへ影響を届ける」技術なら存在する。

  • 電波
  • X線
  • 中性子
  • ニュートリノ
  • 超音波
  • 重力

などは物質をある程度透過する。

特にニュートリノは非常に物質と反応しにくく、地球をほぼそのまま通過する。

しかし人間をニュートリノに変えて戻す技術は存在しない。


ワームホールなら壁を通らなくてよい

もし「壁を貫通する」のではなく、

壁の向こう側とこちら側を時空的に直接つなぐ

なら、量子トンネルとは全く別の話になる。

ワームホールや空間接続の発想である。

この場合、壁の物質を通過する必要自体がなくなる。

「どこでもドア」の方が、量子トンネルよりこの考えに近い。


結論——量子世界では壁を抜ける。人間では確率が消える

量子トンネル効果は本物である。

電子、原子核、分子などでは実験的にも技術的にも重要な現象である。

しかし人間を壁抜けさせるには、

  • 巨大な質量
  • 厚い障壁
  • 約 10²⁸ 個の原子
  • 人体構造の維持
  • デコヒーレンス
  • 電磁相互作用
  • パウリの排他原理

という複数の問題が一度に立ちはだかる。

だから、

「量子力学では何でも起こり得るから、人間も壁を抜けられる」という理解は正しくない。

量子力学は壁抜けを許している。

ただし、その確率はスケールが大きくなるにつれて指数関数的に消えていく。

人間が壁をすり抜けることは、

物理法則が完全に禁止しているというより、宇宙が事実上起こさせてくれない現象

なのである。

参考文献

  • Standard quantum mechanics texts on barrier penetration
  • Scanning tunneling microscopy and electron tunneling
  • Alpha decay and quantum tunneling
  • Decoherence theory and macroscopic quantum systems