光を止めることはできるのか?――秒速30万kmの光が「停止した」実験の正体
光を止めたとされる実験で実際に起きたことを、低速光と量子情報の保存・再生という観点から解説する。
光は真空中を秒速約30万kmで進む。
では、その光を「止める」ことはできるのだろうか。
実は物理学では、すでに「光を止めた」と表現される実験が行われている。
2001年、研究チームは特殊な原子媒体の中で光パルスを極端に遅くし、最終的にその光が持っていた情報を原子集団へ保存し、後から再び光として取り出すことに成功した。
一見すると、
秒速30万kmの光を0m/sまで減速した
ように見える。
しかし、厳密には少し違う。
結論から言えば、
真空中を飛んでいる光子そのものを、そのまま静止させたわけではない。
光の量子的な情報を物質側へ移し、後から再び光として復元したのである。
この違いを理解すると、「光とは何か」という問いまで見えてくる。
光を遅くするとはどういうことか
まず、真空中の光速は変えられない
真空中の光速は
特殊相対性理論では、この c は単なる「光という粒子の最高速度」ではない。
時空の構造そのものに組み込まれた定数である。
真空中を自由に伝わる光子は、静止質量を持たず、常に c で伝播する。
つまり、
真空中の光子をブレーキで減速し、時速100kmにして止める
ということはできない。
では水やガラスの中で光が遅くなるのはなぜ?
光は真空中では c で進むが、物質中では見かけの伝播速度が遅くなる。
屈折率 n を使えば、
たとえば屈折率1.5程度のガラスなら、
つまり真空中の約3分の2である。
ただし、これを
「光子が物質中ではずっと遅い速度で飛んでいる」
と単純に考えるのは正確ではない。
物質中では光と物質が相互作用する
電磁波が物質へ入ると、物質中の電子や原子が電場に応答する。
入射した光と、その応答によって生じる電磁場が重なり合った結果、
光パルス全体の伝播速度が変化する。
ここで重要になるのが、
- 位相速度
- 群速度
の違いである。
情報やパルスの包絡が進む速度として重要なのは群速度だ。
「光を極端に遅くする」実験では、この群速度を大幅に下げる。
実験では光をどこまで遅くできたか
光を秒速17mまで遅くした
1999年、Lene Vestergaard Hauらはボース=アインシュタイン凝縮体を使い、光パルスの群速度を大幅に低下させた。
通常なら1秒で地球を7周以上する光が、
人間が自転車や車で追いつけそうな速度
まで遅くなった。
その後、さらに研究が進み、
2001年には光パルスを実質的に「停止・保存」する実験が報告された。
ボース=アインシュタイン凝縮とは
原子を絶対零度近くまで冷却すると、多数の原子が同じ量子状態を占めることがある。
これがボース=アインシュタイン凝縮(BEC)である。
通常の気体では原子はばらばらに熱運動している。
しかしBECでは、多数の原子が一つの巨大な量子波のような性質を示す。
そのため、
光と物質の量子的相互作用を極めて精密に制御できる。
光を遅くする鍵——電磁誘起透明化
特殊な原子媒体へ特定のレーザー光を当てると、本来なら光を吸収するはずの原子が、量子干渉によって透明になることがある。
これを
EIT:Electromagnetically Induced Transparency
電磁誘起透明化
という。
EITの条件では、媒体の屈折特性が非常に急激に変化する。
その結果、光パルスの群速度を極端に小さくできる。
「光を止める」とき何を保存しているのか
「光を止める」とき、何が起きている?
ここが最も重要である。
EITによって遅くなった光パルスは、原子集団と強く結合した状態になる。
光だけでもなく、物質だけでもない。
この混成状態はしばしば
ダークステート・ポラリトン
として記述される。
制御レーザーを徐々に弱くすると、
光パルスの性質が物質側へ移っていく。
最終的には、
光が持っていた振幅・位相などの情報が、原子集団の量子状態として保存される。
この時点で、外へ進む光パルスはなくなる。
これが「光が止まった」と表現される状態である。
光子を箱の中で静止させているわけではない
イメージとしては、
誤解
光子
↓
減速
↓
0m/sでその場に停止
ではない。
実際には、
より正確なイメージ
光の状態
↓
光と原子の混成状態
↓
原子集団の量子状態へ保存
↓
再び光へ変換
となる。
つまり、
止められたのは「光子の運動」そのものではなく、光が運んでいた量子的な情報である。
そして再び光として取り出せる
保存された原子の量子状態へ制御レーザーを再び当てると、
保存されていた情報が再び光パルスへ変換される。
元の光パルスが持っていた情報を保ったまま、光を再生できる。
2001年のNature論文では、光パルスを媒体内へ閉じ込め、その光学情報を保存・再生することが実証された。
2007年には別の場所から光を再生した
さらに興味深い実験も行われた。
2007年、Hauらの研究グループは、
- あるBECへ光パルスを入れる
- 光を物質波へ変換する
- その物質波を別のBECへ移動させる
- 別の場所から光パルスとして再生する
ことを実証した。
元の光がそのまま空間を移動したのではない。
光の情報が物質波へ変換され、別の場所で光へ戻った。
これは量子情報処理にとって非常に重要な考え方である。
光を完全に保存できる時間は無限ではない
もちろん、光情報を永久に保存できるわけではない。
原子集団の量子状態は、
- 熱運動
- 外部磁場
- 原子同士の衝突
- 環境ノイズ
- デコヒーレンス
などによって崩れていく。
したがって保存時間には限界がある。
現在の研究では、量子メモリとして保存時間を伸ばすこと自体が重要なテーマになっている。
光を閉じ込めれば停止したことになるか
鏡の箱へ閉じ込めれば「止まった」ことになる?
別の方法として、光を鏡の間で何度も反射させることもできる。
高性能な光共振器なら、光を長時間閉じ込めることができる。
しかしこの場合も、光は止まっていない。
内部では光速で移動しながら反射している。
つまり、
場所に閉じ込めることと、速度をゼロにすることは違う。
完全な鏡があれば永久に閉じ込められる?
理想的な反射率100%の鏡があれば、理論上は光を非常に長く閉じ込められる。
しかし現実の鏡には必ず、
- 吸収
- 散乱
- 透過
がある。
少しずつ光エネルギーは失われる。
ブラックホールなら光を止められる?
ブラックホールでは、事象の地平面より内側から光は外へ出られない。
しかし、これも「光が止まっている」わけではない。
局所的には光は常に光速で進んでいる。
ただし時空そのものが極端に曲がっているため、
外へ向かう未来の経路が存在しなくなる。
これは媒質中のslow lightとは全く別の現象である。
光を止める技術は何に使えるか
最大の応用候補は、
量子情報の保存と通信
である。
量子コンピューター同士をネットワークで接続するには、
飛んでくる光量子情報を一度保存し、必要なタイミングで再送する技術が必要になる。
つまり光を止める研究は、
- 量子メモリ
- 量子中継器
- 量子インターネット
- 量子コンピューター間通信
につながる可能性がある。
「光を止める」が問い直すもの
「光を止める」は、光とは何かを問い直す
この実験が面白いのは、
「秒速30万kmの物体を停止した」
という単純な話ではないことだ。
光は、
- 電磁波
- 光子
- 量子状態
- 情報媒体
という複数の顔を持つ。
そして物質と強く結合すると、
「どこまでが光で、どこからが物質なのか」
という境界すら曖昧になる。
結論——光そのものを0m/sにしたわけではない
「光を止めた」という実験は本当に存在する。
しかし、
真空中を走る光子へブレーキをかけて静止させたわけではない。
光を特殊な原子媒体と結合させ、
光の情報を原子集団の量子状態へ移し、
後から再び光として取り出したのである。
したがって、
真空中の光速
cが破られたわけではない。
それでも、この技術は十分に驚異的だ。
人類は光を単に反射・屈折させるだけでなく、
光が持つ情報を物質へ預け、必要なときにもう一度光へ戻す
ところまで来ている。
「光を止める」という言葉の本当の意味は、
速度をゼロにすることではなく、
光と物質の境界を制御すること
なのである。
参考文献
- Liu, C., Dutton, Z., Behroozi, C. H. & Hau, L. V., “Observation of coherent optical information storage in an atomic medium using halted light pulses”, Nature 409, 490–493 (2001)
- Hau, L. V. et al., slow-light experiments in Bose–Einstein condensates
- Ginsberg, N. S., Garner, S. R. & Hau, L. V., “Coherent control of optical information with matter wave dynamics”, Nature 445, 623–626 (2007)